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[歴史・史料関連]拷問の話《ごうもんのはなし》
作者名:岡本綺堂
初出:「新小説」1924(大正13)年2月号

劇作家・小説家である岡本綺堂の随筆。

司法制度としての拷問の話。

時代劇などでは「厳しいお調べ=拷問」のように描かれることが多いが、実際のところ、江戸時代の奉行所では「拷問による自白」は「奉行所の能力不足」と取られ、信用問題に発展する恐れもあり、極力拷問を避ける方針だった。
大阪を所払いになった窃盗の常習犯・吉五郎は、江戸に流れ着くと仲間を集め、日本橋人形町で鼈甲の櫛四枚を盗んで売りさばいた。
逮捕されたの仲間は自白に及んだが、吉五郎は頑なに否定する。
自白が取れなければ裁きが出来ない。奉行所は苦渋の選択をし、吉五郎に対して拷問が行われることとなる。
石抱き、鞭打ちといった通常の拷問にあっても、無実を訴える吉五郎。更に厳しい海老責め、釣し責めも行われたが、それでも口を割らない。
牢屋では他の囚人達が彼を英雄のように称えて、(当然非合法の)衣食の差し入れが行われ、拷問を受けて半死半生の筈の吉五郎が、丸々と健康そうに太る程であった。
奉行所は最後の手段として「状況証拠による犯罪認定」すなわち察斗詰《さとづめ》の裁定を行い、吉五郎を死罪と断じた。
処刑の日、吉五郎に牢内の囚人達から新しい麻の帷子、襦袢、帯、白足袋が贈られた。それを纏って刑場へ引き立てられる彼の背に、囚人達は「日本一!」と賛美の声を浴びせかけたのだった。
(2015/10/15(Thu) 20:17)
[大衆文学]小坂部姫
作者名:岡本綺堂

播州姫路に伝わるオサカベ姫伝説を元に描かれる、伝奇長編。

ある夕刻、吉田兼好の庵に美しい娘が訪ねる。娘の名は小坂部。兼好を訪れたのは、塩冶判官高貞の妻に対する恋情に悩む父・高師直のために、恋文の代筆を頼むためだった。
小坂部が携えてきた文を喜んだ師直は、娘の「思い人と結婚したい」という願いを聞き入れる。小坂部の思い人は、家臣の若侍・本庄采女だった。
しかし小坂部の兄・師冬は妹に有力者との結婚望んでおり、采女との結婚には反対だった。
件の恋文は塩冶の妻に届けられた。小坂部は返歌の内容が拒絶を意味していると察したが、師直にはその本意をくみ取れない。
小坂部が今一度兼好法師に相談しようと出掛けた道すがら、一行は『眇目の唐人』と呼ばれる奇妙な男と出会う。
唐人は「神のお告げにより、小坂部を訊ね来た」と云う。侍女たちに追い払われた唐人は、呪詛らしき言葉を唱えつつ姿を消す。
小坂部が留守にしている間、返歌の本意を侍従が師直に告げてしまった。
兼好法師の留守宅から戻った小坂部に、師直は「(恋を)思い切った証拠は一日か二日のうちによう判る」と告げる。
師直は部下達を招集し、将軍足利尊氏の館へ出仕した。塩冶判官を謀叛人と讒訴し、妻を奪おうと画策したのだ。
兄・師冬が塩冶討伐に反対して父に退けられたと聞き、小坂部も父を諌めようと努めるが、師直は聞く耳を持たない。
小坂部は本庄采女を伴って屋敷を出て行く。行き先は塩冶の屋敷。小坂部は塩冶判官の妻に次第を告げた。
その帰り道、またしても『眇目の唐人』が現れる。小坂部は不安を感じつつ、兄・師冬の元へ身を寄せる。小坂部に采女との結婚を諦めるよう説得する師冬。
小坂部が屋敷に戻ろうとしたとき、娘の裏切りを知り怒り狂った父の刺客が彼女を襲う。
そこに『眇目の唐人』が現れ、小坂部達を救い出す。
近隣の村が焼かれ、小坂部は父の所行を悲しみ、父の元へは戻らないと決心する。
師直の部下が小坂部を探し、捕らえようとする。小坂部は自ら懐剣を持って抵抗する。采女も奮戦したが倒れされる。小坂部は『眇目の唐人』の手引きで漸く落ち延びる。
小坂部が辿り着いたのは蝙蝠と梟が棲む姫山の城。『眇目の唐人』は小坂部に「あの天主閣がお身の棲家」と告げる。
さらに『眇目の唐人』は高師直・師冬親子の哀れな死を予言し、自身を「夜叉羅刹・阿修羅の呪いをもって、幸いを禍いとし、治世を乱世にする」存在であるという。そして小坂部を「いにしえの玉藻の前に匹敵する悪魔の徒党」と断じる。
小坂部が拒絶し「死んだ采女を生かして返せ」と云えば、眼前に采女の幻が現れる。
采女の蘇りの引き替えに仲間となれと迫る『眇目の唐人』。采女の幻もそれを勧める。
小坂部は云われるままに血盃をすすった。
その後、高師冬は討死、高師直は謀殺された。
時は流れ、江戸。姫路藩主となった松平忠明が江戸城へ登ると、将軍家光は彼に「天主閣を守り神として疎略にするな」と命じた。
代々の城主がこの守神を篤く奉ったが故に、徳川時代二百六十余年の太平が続いたという。
(2012/02/02(Thu) 17:31)
[その他文献]小坂部伝説
作者名:岡本綺堂

綺堂先生が戯曲・小坂部姫を書くに当たって、「播州姫路の小坂部(長壁姫、小刑部姫、刑部姫)」について調査したちょっとしたことについての小まとめ的な文章というか、エッセイ・随筆というか。

因みにオサカベ姫とは、姫路城の天守閣に隠れ住むといわれる「妖怪」あるいは「守護神」。
蝙蝠を従えた老姫、または、十二単を着た気高い女性の姿をしていると伝えられる。
「姫の顔を見た者は即座に命を失う」「800匹の眷属を操り、人の心を読み、人の心をもてあそぶ」「住処に人が立ち入ると、身の丈1丈(約3メートル)に巨大化して追い払う」「年に一度だけ姫路城主と会い、城の運命を告げる」等の伝承がある。
正体は、一般には老いた狐とされる。別の説では、井上内親王(717〜775年。光仁天皇の廃后)が義理の息子・他部親王(光仁天皇の廃太子。桓武天皇の異腹弟)との間に産んだ不義の子、伏見天皇(1265〜1317年)が寵愛した女房の霊、蛇神(姫路では蛇をサカフと呼ぶことがあるため)、姫路城のある姫山の神、刑部氏の氏神「刑部明神」と「稲荷神」とが習合されたもの、等。猪苗代城の妖姫・亀姫の姉という「設定」もある。(この辺は天守物語参照)

綺堂先生の調査では「刑部姫は高師直(不詳〜1351年。塩冶高貞の奥さんに横恋慕して、吉田兼好に恋文を代筆させたけど、結局振られて、腹いせに高貞に謀反の罪を着せちゃったひと。この辺のエピが『仮名手本忠臣蔵』に利用されている)の娘」という説が出てきたので、長編小説小坂部姫もその設定を生かしたとのこと。
(2012/02/02(Thu) 15:01)
[大衆文学]玉藻の前
作者名:岡本綺堂

伝奇物。

美しい少女藻(みくず)と、その幼なじみで烏帽子職人見習いの少年・千枝松。
毎夜父親の病平癒を願って清水詣をする藻だったが、ある夜、出掛けたきり戻らなかった。
千枝松と陶器師の老人が探しに行くと、妖しげな古塚の麓で眠る藻を見つける。藻は髑髏を枕に眠っていたのだった。
この出来事の後、藻の美しさは妖艶なまでに増した。これを知った関白忠道に召し出され、藻は宮仕えの身となる。
藻と離ればなれとなった千枝松が傷心の余り命を失いかけたところを救ったのは、陰陽博士安倍晴明が六代の孫の播磨守泰親。千枝松は泰親の弟子となり、陰陽道の修行を始める。
一方、藻は「玉藻の前」と呼ばれる女官となっていた。
玉藻の前の妖しい魅力のため、宮中では勢力争いが活発化し、刃傷沙汰や高僧の怪死などの変異が起きていた。
玉藻の前には魔性が取り憑いていたのだ。
敵味方に分かれた藻改め玉藻の前と、千枝松改め千枝太郎。千枝太郎は魔性の敵となった玉藻が、それでも忘れられずにいた。
陰陽師の調伏の祈祷と玉藻の前の神通力の闘いは、玉藻の前の勝利に終わるが、これは実は陰陽師側の作戦でもあった。
千枝太郎は玉藻の前の変化が古塚にあると気付き、その地に祭壇を築いて調伏祈祷を始めた。
祈祷は覿面。玉藻の前は雷鳴と供に姿を消す。
やがて那須篠原に白面金毛九尾の狐が現れ、人畜に害なすという報告が上がる。
その正体は玉藻の前。
陰陽師により調伏された玉藻の前は、不思議な形の石に変じた。
石となってなお、九尾の狐は周囲に呪いを振りまき、近づく獣も鳥も、そして人も死んでゆく。
石はやがて「殺生石」と呼ばれるようになった。
いまだ藻の面影が忘れられぬ千枝太郎は、殺生石を訊ねた。
千枝太郎が「藻よ、玉藻よ」と呼びかければ、石は美しい玉藻の前の姿に変じた。
玉藻は問う。
「お前はそれほどにわたしが恋しいか。人間を捨ててもわたしと一緒に棲みたいか」
千枝太郎が答える。
「おお、一緒に棲むところあれば、魔道へでも地獄へでもきっとゆく」
幾日か後、ひとりの若い旅人が殺生石を枕に倒れているのが見付かった。
旅人の顔には微笑があったという。
(2012/01/30(Mon) 19:31)
[▼資料其の一▼]岡本綺堂
岡本綺堂(1872年11月15日 - 1939年3月1日)
小説家、劇作家。歴史・時代物、ミステリ・推理・探偵小説など、作品多数。
本名・岡本敬二。別の筆名に「狂綺堂」「鬼菫」
東京都高輪に生まれる。父・敬之助は元徳川家御家人(百二十石)。
新聞社に席を置きながら戯作者として執筆活動を開始。
修禅寺物語などの成功により、新歌舞伎を代表する劇作家となった。
1913(大正2)年に新聞社を退社し、作家活動に専念。
シャーロック・ホームズ物を原著で読んだのをきっかけとし、江戸を舞台とした探偵物を着想。1915(大正5)年より代表作「半七捕物帳」を書き始める。
昭和14年(1939年)死去。享年66。
生涯に196篇の戯曲を残した。
(2008/07/03(Thu) 15:46)
[戯曲]修禪寺物語
作家名:岡本綺堂

旧字旧仮名版。
内容は新字新仮名版と同一。

綺堂が修善寺に遊んだ折り、修禅寺に伝わる寺宝「頼朝の面」という奇妙な木彫の面を見て着想したという、鎌倉時代を描いた戯曲。

元久元年七月十八日(1204年8月14日)。
能面師・夜叉王は、二人の娘「かつら」「かえで」、弟子の晴彦の四人で、伊豆・修善寺に暮らしている。
長女のかつらは、都生まれの亡き母親に似たか、公家気質で気位が高く、高貴な身分の男性と結婚を望み、二十歳の歳になった今でも独身でいる。
十八歳の次女かえでは、父親似の職人気質で、父の弟子である晴彦を夫に迎えていた。
夜叉王は伊豆に流された頼家から、彼の顔を写した能面を作るように依頼されていたが、半年を過ぎても納品できずにいた。
その日、痺れをきらした頼家が、自ら夜叉王の工房へ催促にやってきた。
気性の激しい頼家は、まだ納得行く作品ができぬという夜叉王に斬り掛かる。
慌てた晴彦ができあがっていた面を持ってくる。
頼家はその出来を褒めたが、夜叉王は納得していない。
生きた人を写した面に「死相」が浮かんでいると言うのだ。
しかし面を気に入ったという頼家。かつらは面を箱に収め献上する。
かつらの美しさをみとめた頼家は、かつらに奉公に上がるよう命ずる。
かつらは自らの望みかなったと喜び、面を携えて家を出て行く。
修禅寺に戻った頼家は、かつらに亡き妻の名である若狭を名乗らせた。
一時、心安らぐ頼家主従。
しかしその夜、北条方が修禅寺を襲撃した。
俄に聞こえる騒乱の物音に、かつらの身を案じる夜叉王一家。
夜陰から現れた落ち武者をかえで・晴彦夫婦が助け起こすと、それは男装したかつらだった。
父の打った面を被り頼家の衣裳を身につけたかつらは、自ら頼家と名乗りを上げることにより、我が身に敵を引きつけ頼家を逃がそうと務め、深手を負ったのだった。
しかし、寺より避難してきた僧侶から、すでに頼家も討たれたと聞かされ、かつらは力を失う。
かつらが身につけ、敵の返り血を浴びた頼家の面を手にした夜叉王は、今事切れようとする娘を前に歓喜し、笑う。

「幾たび打ち直してもこのおもてに、死相のあり/\と見えたるは、われ拙きにあらず、鈍きにあらず。源氏の將軍頼家卿が斯く相成るべき御運とは、今といふ今、はじめて覺つた。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、先づわが作にあらはれしは、自然の感應、自然の妙、技藝しんに入るとはこの事よ。伊豆の夜叉王、われながら天晴れ天下一ぢやなう。」

死に行くかつらもまた笑う。

「わたしも天晴れお局樣ぢや。死んでも思ひ置くことない。ちつとも早う上樣のおあとを慕うて、冥土のおん供……。」

娘の苦しげな顔を見た夜叉王は、弟子に筆と紙を取りに行かせ、若い娘の断末魔を「後の手本」に写生するのだった。

初出:「文芸倶楽部」   1911(明治44)年1月
底本:「日本現代文學全集34 岡本綺堂・小山内薫・眞山青果集」講談社   1968(昭和43)年6月19日発行
(2008/06/07(Sat) 20:16)
[戯曲]修禅寺物語
作家名:岡本綺堂

新字新仮名版。
内容は旧字旧仮名版と同一。

綺堂が修善寺に遊んだ折り、修禅寺に伝わる寺宝「頼朝の面」という奇妙な木彫の面を見て着想したという、鎌倉時代を描いた戯曲。

元久元年七月十八日(1204年8月14日)。
能面師・夜叉王は、二人の娘「かつら」「かえで」、弟子の晴彦の四人で、伊豆・修善寺に暮らしている。
長女のかつらは、都生まれの亡き母親に似たか、公家気質で気位が高く、高貴な身分の男性と結婚を望み、二十歳の歳になった今でも独身でいる。
十八歳の次女かえでは、父親似の職人気質で、父の弟子である晴彦を夫に迎えていた。
夜叉王は伊豆に流された頼家から、彼の顔を写した能面を作るように依頼されていたが、半年を過ぎても納品できずにいた。
その日、痺れをきらした頼家が、自ら夜叉王の工房へ催促にやってきた。
気性の激しい頼家は、まだ納得行く作品ができぬという夜叉王に斬り掛かる。
慌てた晴彦ができあがっていた面を持ってくる。
頼家はその出来を褒めたが、夜叉王は納得していない。
生きた人を写した面に「死相」が浮かんでいると言うのだ。
しかし面を気に入ったという頼家。かつらは面を箱に収め献上する。
かつらの美しさをみとめた頼家は、かつらに奉公に上がるよう命ずる。
かつらは自らの望みかなったと喜び、面を携えて家を出て行く。
修禅寺に戻った頼家は、かつらに亡き妻の名である若狭を名乗らせた。
一時、心安らぐ頼家主従。
しかしその夜、北条方が修禅寺を襲撃した。
俄に聞こえる騒乱の物音に、かつらの身を案じる夜叉王一家。
夜陰から現れた落ち武者をかえで・晴彦夫婦が助け起こすと、それは男装したかつらだった。
父の打った面を被り頼家の衣裳を身につけたかつらは、自ら頼家と名乗りを上げることにより、我が身に敵を引きつけ頼家を逃がそうと務め、深手を負ったのだった。
しかし、寺より避難してきた僧侶から、すでに頼家も討たれたと聞かされ、かつらは力を失う。
かつらが身につけ、敵の返り血を浴びた頼家の面を手にした夜叉王は、今事切れようとする娘を前に歓喜し、笑う。

「幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙きにあらず。鈍きにあらず。源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、はじめて覚った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まずわが作にあらわれしは、自然の感応、自然の妙、技芸しんに入るとはこのことよ。伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう。」

死に行くかつらもまた笑う。

「わたしもあっぱれお局様じゃ。死んでも思いおくことない。ちっとも早う上様のおあとを慕うて、冥土めいのおん供……。」

娘の苦しげな顔を見た夜叉王は、弟子に筆と紙を取りに行かせ、若い娘の断末魔を「後の手本」に写生するのだった。

初出:「文芸倶楽部」   1911(明治44)年1月
底本:「日本の文学 77 名作集(一)」中央公論社   1970(昭和45)年7月5日初版発行
(2008/06/07(Sat) 20:13)
[その他小説]世界怪談名作集 鏡中の美女
作家名: George MacDonald(ジョージ マクドナルド) 岡本綺堂訳
貧乏貴族の子弟コスモの身に降りかかった恐怖の物語。
古道具屋で見つけた古びた鏡に惹かれたコスモ。
その鏡に全身に白い物をまとっている婦人の美しい姿があらわれた。
(2006/10/16(Mon) 13:49)